201601182310

写真のティーザーさえ上がる前から書いていて、一記事の中で心境の変化もなかなかなのでつながりおかしかったらごめんなさい。許してください。ちなみにまだペンミの話です。許してください。許しは乞うけど言い訳はしない。

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いつも何考えてるのかよくわからないりょくでぃーのこと。(まあそれはまだわたしがりょくでぃーのことよく知らないからなんだろうけど)

わたしはしばらくりょくでぃーに会えないかもしれなくて、でもりょくでぃーはぜんぜんそんな様子もなく名残惜しい感じもまったく出さずにキャッキャしてました。
まあそんなことは。
りょくでぃーにとってはまだソロデもソロコンもソロペンミもあってこれからだから当たり前なのかもしれないけれど。最後かもしれないのは、それについていく経済力と気力がおいつかないわたしの責任だしなぁと思いつつ、
でもりょくではなんか、最後までカラッとしようとつとめるようなきがするような、
うーん、最後見れないのは悔しいな、やっぱり。


りょくでは、名古屋の最後の日にお手紙を書いてきて以降、挨拶の時には手にカンペを持っていくようになって、
今回のペンミも挨拶の時は手に紙を持っていた。なんかアルファベットで書いてあるようなやつ。
それが嬉しくて。
まず返しモニター見ながらしゃべるのと紙見ながらしゃべるのでは客席から見た印象がぜんぜん違う。(それにちっさい紙見ながらマイク持ってしゃべるって動作がりょくでに似合うことこの上ない)
それに加えて、今まで取ってつけたような言葉だった日本語挨拶に感情が宿りましたよね。たぶんりょくで自分で考えてる。
毎回そうやってちゃんと考えて自分の言葉で挨拶してくれるようになったりょくでの考え方の変化が嬉しくて。それが始まったのが日本ツアーだったということも嬉しかった。まああの頃は、あれだけでもなくけっこういろいろあったからこそなんだろうけど。

いやーしかし、ほんと神戸の時はどうしたことかと思いましたよね、今だから言うけど(笑)

↑ここまで1月18日夜エイネを見ながら書いていました。



けっきょく、かなり気丈にふるまってくれ、あの冬わたしたちの唯一の日常でいてくれたりょくでぃーも、なんだかんだ言って(嘘、なんだかんだ言わないで)、あの頃は毒毒だったのかなぁと。今ふと思った程度のことですが。

ずっとりょくでは何を考えてるのかわからないなぁと思っていた。一番平和主義に見えてよくよく噛み砕いてみるとけっこうそれ攻撃してません?みたいなこと言ってることも少なくなく、そんなりょくでのしゃべりをたまに聞いては、たぶんりょくでは白ではないなぁと思っていたし、むしろ黒のほうがおもしろいなぁと思っていたけど、りょくでが明言していない分わたしも適当に明言してりょくでがほんとは白だったら悪いしな、なんて。

さっきも言ったけど神戸は6月、その頃ぐらいまではやっぱりおスジュ自体まだちょっとグラグラで、名古屋を見てわたしは書いたのだけど、あの時、名古屋の6月30日から3日間、わたしが見た3人は完全に「なんかあった?」って感じでした。神戸と雰囲気が違って。

そしてりょくでは名古屋の3日目にお手紙と曲を用意してきた。

そういう流れだった気がする。


最近のりょくでは毒が抜けたみたいに透き通って見える。
なんというか、ほんとうに「毒が抜けた」というのがぴったりのような気がするくらいの。透明感。

今まで観ていたりょくでとなんか、違うなぁと思った。

それはもちろん、7月2日にあそこで泣いてからなのか、
ソロデがすぐそこまで来ていたからなのか、
究極そんなことわかりっこないんだけど。

とにかく、すっきりとしたりょくでが見られたペンミでした。

まあ相変わらずつまらなさそうな顔してる時間もあったけれど。大事なときにあの顔するのはやめたね。良いね。


どうしてもりょくでのことは許してしまうから今まで何も言ってこなかったし、あまりなにも、思ってさえなかったけれど、
それでもでもやっぱりりょくでの挨拶が今ほど気持ちよく聞けることなんてなかったなぁ、と。


あとドロシーが、良かった。


りょくでのこと、もっともっと好きになりたいしもっともっと見ていきたいのに、
なんでみんな、良い時に去ってしまうんだろう。
なんで、はちょっとナンセンスかな。